1.とある焼菓子の交わり
先日、知己よりうまい焼菓子を頂いた。『ホワヰトアヴヱツク』なる洒落た名の付いた焼菓子で、軽妙な口触りと牛乳(ミルク)の柔らかな香りが我が舌を喜ばせてくれた。早速先方に味の所感を述べた所、この菓子は他にも種類があるが、そちらは包装が特殊なのだ、と言うやうな事を言つていた。菓子に蒙昧な私はへえと生返事をしたと思う。閑話休題、今回はこの焼菓子の美味が主眼なのではない。さうではなく、この博覧強記の御仁が、菓子についてとんと疎い私に菓子を渡した事に因つて、互いの域界が交わりを持ち、あたかも橙(だいだい)の実がふつくらとまろみを大きくするやうな、そんな一瞬時を感じたことを書き記しておきたいのである。
畢竟ずるに、一個の物がうんからうんへと渡る時、或いは一個のうんが此岸から彼岸へと渡る時、そこには常に別種の物同士のまぐわう特殊な空間が開けているのだらう。それは時に知識と知識のまぐわいであり、時に男と女のまぐわいであり、そして窮極的には生と死のまぐわいである。だから私は常々、弟子のうん達や、うんに成る事を志す市井の人々に対し、「渡れ。生きるか死ぬか。生きるか死ぬかだ。」と口角泡を飛ばし教え諭しているのである。
2.獣達は故郷をめざす
先日、我が家の飼い猫が窓から外を眺めていた。普段、尻に糞なぞ付けて、気の狂つたやうに駆け回つている奴が、その日は物憂げに、それでいてどこか意志を秘めたやうな顔つきでもつて座つて居たのであつた。そんなものは猫にはよくある事だと言われるかも知れぬが、その時の私は、獣にしか感ぜられぬ何かがあるのだと思わずには居れなかつた。
数日後、先の猫の事なぞとんと忘れたまま、釦(ボタン)を押す仕事に出ていた。(世間の人には信ぜられぬかも知れぬが、世の中には釦を押す仕事という物があるのだ。)その日の仕事の仔細は割愛するが、珍しく疲労困憊して自宅に帰つて来た私は、一息ついて後、窓の外の宵闇を見つめ、「帰りたい」と呟いたのだつた。それはあたかも私ではない誰か一いや、私に潜む誰か、と言つた方が適切であらう一が出した声のやうであつた。その時、二ツの疑問が頭を駆け巡つた。一ツは、「ここが帰るべき場所であるはずなのに一体何処に帰りたいというのだらうか。」そして二ツ目は、「ここ以外に帰る場所があるのだとすれば、そこはどんな場所なのだらうか。」
未だにその答えは見つかつていない。それどころかその端緒にすら触れられぬままこの拙文をしたためている。しかし、暗闇を見つめ「帰りたい」と呟いた己自身と、あの日窓辺で神妙な眼差しをしていた猫の姿がやけに重なつて見えて仕方ないのだ。我が家の猫も、帰るべき場所なぞ知らぬままにそれでも「帰りたい」と声にならぬ声で呟いていたのやもしれぬ。
3.ウンハトオヴを追つて…
先日、行く宛もない望郷の念に駆られてからと言うもの、私という獣の故郷はどういう所なのだらう、と思いを巡らせている。桃源郷とかユウトピヤとか言つてしまえば収まりはいいが、それでは何処となく充溢しないものがあるやうに感ぜられる。一ツ確かな事は、そこにはうんがいると言う事である。それもぽつねんとかまばらにとか言うのでなく、群れを為していると言い表すのが適切だと思われるやうな、さういう在り方である。各々のうん達がそれぞれ思い思いに暮らす場所である。野放図でありながら独自の秩序を決して逸脱しないうん達の里である。
私はその里をウンハトオヴと名付けてみた。遠い日、生きるか死ぬるかをもろともに含んだ、大きく丸い橙(だいだい)を携えて、我が故郷ウンハトオヴへと渡る事が叶うだろうか。その時、ウンハトオヴのうん達は手を振つて私を迎えてくれるだらうか。さう考えると、自然と微笑みが漏れてくるのだつた。ふと我に帰ると一人書斎で笑みを浮かべる己が恥ずかしくなり、思わず「ふ、馬鹿な。」と自嘲をして取り繕つてみたものの、やはりウンハトオヴへのあくがれを頭から拭う事は能(あた)わず今に至る。
山のあなたのあの向かう、海のあなたのあの向かう、月のあなたのあの向かう、今も我が望郷の念は、ウンハトオヴを追つて馳せ巡らずには居れない。
了