特集:「光について」第一回
はじめに
私は「道化師と光の会」で牧師を務めているうんである。このたび、ぬうん通信の依頼の元、光についての考察を披露する機会を賜った。我々うんたちが信奉する光について、今いちどじっくりと考えを巡らす契機となれば幸いだ。本日より数回にわたり、『光について』という題を掲げ、光を見つめていきたい。
まずは、特集の開始を記念して、我らの会歌の一つを斉唱したい。心から聴き惚れる名曲である。
根源的命題 ー 発光の経緯と組成
「光の子」である我々うんたちは、光を見れば即座に興奮を覚え、恍惚として何も考えられなくなってしまう。しかし、うんたちをこんなにも魅了する光を一考するうんは現れたことがない。我々は光を信仰しつつも、それは妄信的であってはならないと考える。光について考察を巡らせることこそが、真の意味での信仰である。
そこで、まずは、「光はいつどのようにして生まれるのか?」この最も単純で根源的な疑問を投げかけた。
エネルギーの結晶としての光
光が現れる時の音について、ほぼ全てのうんたちが「ペカッ」であると答えるであろう。実際、我々の元に光が注がれる時には、耳ではなく脳天に直接響くようにして「ペカッ」というあの音が鳴る。あの「ペカッ」はどうして耳には聴こえないのに、頭あるいは心には確かに聴こえるのであろうか?
それは、光というものが音波としてではなく、ある種のエネルギー波となって現出するからである。
我々うんたちに限らず、生きとし生けるすべてのものはエネルギーを放ちながら生きている。この世界は、悲しみも苦しみも喜びも嬉しさも、ありとあらゆるものがエネルギーとなって漂っている。そして、そんなエネルギーが偶然にも重なり合い、固まり、やがて結晶として結実したものが、あの光なのである。
闇の払拭がもたらす光
他方、我々は知っている。あの光というものは、必ずしも「ペカッ」という音を伴うわけではないことを。そう、光はごくまれに「フッ」という音とともに発現するのである。我々うんたちは、あの現象を確かに知っていながら、ただ光に魅せられるばかりで、深く考えずにいた。あの「フッ」という音はどうやって説明されるべきなのだろうか?
この問題を考える端緒として、我々はどうすれば光がもたらされるのか、について考えた。その結果、光がもたらされる方法は二種類あるということに行き着いた。
一つは、暗闇の中で何かが発光することでもたらされる。これは最も一般的な光であり、あの「ペカッ」と聴こえるエネルギーの結実がまさにそれである。
そして今一つが、「フッ」をもたらす光の現出である。つまり、それは、光を覆う闇が取り払われることによってもたらされる。暗闇に光が現れるのではなく、光はすでに現れていたにも関わらず、それを闇が覆っていた場合、その闇が払拭されることによって光が現れるのである。
この二つの光は、確かに同じ光である。しかし、その光の発現の仕方の違いが音の違いをもたらすのである。