シリーズ「魔海奇譚」より
「海には魔物がいる。」多くの人間はこの言葉の本当の意味を知らずに生きている。けれど、妖(あやかし)はどんな海にも棲んでいて、おまえの背後から呪わしい視線を送っているのだ。
シリーズ「魔海奇譚」より
夏真っ只中の今、クーラーよりもかき氷よりも冷える「海の怪談」をお伝えしよう。
『玉弾きのうつろ』
プロローグ 「玉弾きのうつろ」
玉が弾かれる音で私は目覚めた。どうやら仕事中に寝てしまっていたようだ。気づけば先程まで空席だった両隣に人が座って玉を弾いている。私も同じように玉を弾いていたはずだが、寝ている間に上皿から玉はなくなり、バネが玉のない空間を叩くズカッという不快な感触が手に伝わってくる。
私の仕事とはつまりこの玉を弾くことである。多くの人にとってこの行為は金を使って営む遊興なのだが、私の場合はこれで日銭を得ているというわけだ。総じて仕事と遊興とは重なる部分が少ないから、遊興にのみ目的がある行為を仕事にするということは、その営みの持つ本来の意味を失うことである。つまり私はただひたすらにその無意味な行為に身を投じているのだ。
さっき手に感じた感触を不快に思ったのは、要するに己自身のうつろを突きつけられるからなのだろう。だから私はこの仕事を「うつろ仕事」と呼んでいる。
「海の魔術師」
玉弾きの仕事が無意味なうつろ仕事だと言っても、とはいえ全くの無というわけではない。むしろ、驚きに満ちあふれているといってもよい。
私のうつろ仕事の半分以上を占めている機種が『海辺の問わず語り』シリーズである。『海辺の問わず語り』シリーズは、通称「海」と呼ばれ多くのユーザーに愛されている。海洋生物たちが図柄になっており、リーチがかかるとあぶくが発生する。あぶくの代わりに魚雷が流れれば激アツの人気シリーズである。
とりわけ、このシリーズが設置されているシマでは驚きがつきものである。例えば、以前、シリーズのひとつ、『海辺の問わず語り沖縄旅情編3』を打っていた時のことである。隣に老人が座り、3つあるモードのうち「沖縄モード」という最もにぎやかなモードを選択し打ち始めた。まもなくして、老人の台にリーチがかかり中央に緑のデメニギスが姿を現した。すると老人は突然、左拳を高々と掲げ、何かをつぶやいてから目の前にある貝殻の形のボタンへ一気に振り下ろした。と、次の瞬間目の前に現れていた緑のデメニギスが、「レッツデメニギス♪」の掛け声とともに桃色に姿を変えたではないか。さらに、老人は再び何かをつぶやき、今度は固く握った左の拳を柔らかく開き、盤面を右から左へと優しく撫ぜた。すると、その柔らかな手の動きに導かれる様に魚雷が流れた。そして、最後に三たび何かをつぶやくと、両の手を結び、先ほどの貝殻の上へと祈る様に下ろした瞬間、けたたましい音とともに上部から盤面を覆うほど巨大な真珠が下りてきてまばゆい光を放った。
私はその時、この老人は「海の魔術師」なのだと悟った。魔術師は隣であっけにとられている私の方を向くと、真珠のまばゆい光を浴びながらしかめ面でこう言った。
「なんだよ、まぶしいな」
3.「慧眼の占者」
こんなこともあった。私がまだこの『海辺の問わず語り』シリーズの奥深さを知らなかった時の話だ。いつものように台の画面ではなく携帯電話の画面を見ながら打っていた。(数時間何も起きないこともざらであるため、携帯をいじりながら打つ者も多いのだ。)すると、隣に座った白髪の小さな老婆が話しかけてきた。「その台はようあぶくが出るのぉ。」
海辺シリーズのあぶく演出というのは、空気みたいなものでほとんど当たらない。私が気にしているのは魚雷演出だけだったから、「あぶくじゃどうにもならない、魚雷が出ないとダメですよ。」と返しておいた。すると、「そうかのう?あぶくで当たるけどなぁ。こっちは魚雷なんて全く出んよ」と言われた。
また携帯の画面に視線を落としてしばらく、老婆が台のボタンを執拗にいじっているのが横目に見えたのでふと目を移した。すると、老婆の台には演出カスタム画面が映っていた。何の気なしにそれを眺めていた私は思わず身を固めた。なんと、魚雷の出現頻度の項目が「出現しない」に設定されていたのだ。そりゃ魚雷は全く出んよ、と多少面食らったものの、海辺シリーズで遊んでいる老人は細かいことなど気にしない者が多いので、取り立てて驚くことではない。本当に驚くのはこの後のことだった。
気を取り直して再び携帯に視線を落とした私は、横目で魚雷が来ないか監視しながらも、次第に携帯のニュースに没頭していった。すると、ふと隣の老婆に肩を叩かれた。顔を上げ老婆の方を見ると、私の台の画面を指さし、「当たるよ」と言った。私の台ではたしかに7図柄のセイウチがリーチになっていたが、あぶくしか出ていないのは横目で確認済みだ。その上、スーパーリーチに発展すらしていないから当たるわけがない。私はなかば呆れて、素人のたわごとに付き合うような気分でそのリーチの行方を眺めていた。外れたあとに老婆に向ける愛想笑いの準備をしていると、図柄はだんだんと動きを遅めていった。今、7図柄に挟まれたテンパイラインの上を2図柄のオニオコゼが通り過ぎるところである。ここでスピードが落ちるということは、タイミングとしては3図柄のワニガメか4図柄のピラニアが止まるに決まっている。
ふと、他人の当たるはずもないリーチを「当たる」と断言した老婆は、いったいどんな顔をして見ているんだろうと思い横を見ると、そこにはみじんも迷いのない表情の老婆があった。その瞳はまるで、「それが運命というものなのじゃよ」と言わんばかりに悟りきっていた。
しかし、老婆の瞳の清らかさに反して、やはり私のセイウチリーチの真ん中にはギザギザの歯をむき出しにしたピラニア図柄が止まっていた。一瞬、老婆の瞳によって崩れかけていた愛想笑いを再び形成し直し、老婆の方を見ようとしたその刹那、図柄、走る。ギョイギョイギョイという音とともに一度とまったピラニアがまた動き出し、あっという間にセイウチが揃っていた。
どうしてわかったの?という顔で老婆を見ると、「今のはあぶくが大きかったんじゃよ。」と教えてくれた。私はこの時初めて通常のあぶくの他に「大あぶく」というものがあるのだと知った。しかし、魚雷出現頻度の設定すらわかっていないこの老婆は、一体なぜあぶくについてはかくも詳しいのか、いまだに疑問である。おそらく、あぶくへの尽きせぬあくがれがなせるわざなのだろう。
私はあの時の老婆を『慧眼の占者』と名づけ、海の師として心より慕っている次第である。
かような具合にして、私のうつろは驚きで満たされていると言ってよい。意味も目的もない巨大なうつろに今日も魚雷が流れ込む。