ぬうん通信

ぬうん通信 vol.92 (2020.11.26.Thu)

ふんすけふんふん斎 特別寄稿:「遡行試考〜うんの始源を辿る」

庭の梅の木は己の衣を質に入れ、その質金でもって赤き模様の入った着物を椿のために拵(こしら)えた。椿は申し訳なさそうに、しかし嬉しさを隠せぬ様子で佇(たたず)んでいる。幾歳(いくとせ)も繰り返し見てきたそんな光景だが、今年は少しく違って見えた。それは先頃発見された古文書の所為だということは自分でもわかっていた。

その古文書は、うん公文書館の書庫に保管されていた木箱から見つかったそうな。保存状態が悪く、殆どの文字は読めぬ有様であったが、重要な一節を読み取ることができた。その記述は後程引くこととして、この古文書が何について書かれたものなのかを先に述べておこう。

古文書は『うんのこもんじよ』と題されており、どうやらうんの始源についての伝説を集めたものらしい。

うんの始源については、兼ねてよりうんの間で議論を闘わせられていた。

論壇では「『うん』が森羅万象を意味するのであるから、当然うんはうんより生まれたのに相違ない。」と主張するうんが主要派を成している。彼らは「うんはうんより出でてうんよりうんし」を掲げ、うんを絶対的なものとして祭り上げようとしている。

だが、私個人としては、この考えには与(くみ)しない。うんが森羅万象を意味するからといって、うん自体がうんから生まれたという根拠にはならないし、仮にうんがうんより生まれたのであれば、うんを生んだうんは常にすでに存在するもの、つまり神ということになる。しかし、うんである私は私自身を神の一部だと思うようなおこがましいことは考えないし、その慎ましさこそがうんの特色とも言える。したがって、私は「うんはいつしかうんになったのである」という考えを持っている。「うんはうんよりうんし」派のような派手さはないが、より道理に誠実な考え方であると思う。近年、私の主張が徐々に浸透し、若うんを中心に、当方の考えを支持するうんの数も増えてきた。

かような分断・対立がある中で、うんの始源に関する古文書が発見されたのであるから、論壇がいかに色めきたったかは言わずもがなであろう。

いやはや、このふん斎長きに引き伸ばし過ぎた。それでは、その古文書の一節を引用しよう。

さつちやんさつちやんたとなりて、やがてさつちやうんたにてんずる

『うんのこもんじよ』

「さつちやん」なるものが「さつちやうんた」に転じた、と読み取れる。この「さつちやうんた」の中に確かに「うん」がいるのを見逃してはならない。「さつちやん」なるものがどういうものなのかは全く不明だが、少なくとも、うんはかつてうんではなかったのである。これにより、私の考えは確かなものだということが明らかになった。

しかるに、「うんよりうんし」派は我が軍門に下るを潔しとせず、古文書の真偽について司法の判断を仰ぐという声明を出した。今のところその証拠を示すに能わず、その狼狽ぶりを冷ややかに見ている次第である。

幾度(いくたび)も着物を与えられながら、常に申し訳なさそうに喜ぶ椿のように、己がうんであることを当然と思わず、うんの始源に思いを馳せて参りたい。    了

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